われ農夫の祈りに開眼す
今は昔、およそ一世紀前に遡る1933年の春先のことー
のちの森産業創業者となる森喜作は、山村農家の生活実態に関する
卒業論文調査のために訪れた大分県の山村で悲痛な光景を目にしました。
それは貧困にあえぐ老農夫が、切り並べられた原木を前にひざまずき祈る姿でした。
「なば(椎茸)よ出てくれ。おまえが出んば、おらが村から出ていかんばならんでな」
当時の椎茸栽培は、借財して用意した原木に椎茸の胞子が自然付着するのを祈るしかない一か八かの難事業。失敗すれば一家離散が待っていました。
その姿に胸を打たれた森喜作は「一生を椎茸の研究に捧げよう」と強く決心し、
以来、故郷の桐生にて寝食を忘れて研究に没頭しました。
無謀な挑戦だと嘲笑う周囲の人々、幾多の失敗や挫折にもめげず、ついに1942年、
世界で初めて純粋培養菌種駒法の発明に成功し、確実に椎茸が出来る技術を
完成させたのです。
きのこ産業発展への貢献
村々から上がる歓喜の声を受けた森喜作は、全国へ種駒の製造供給を行うために会社を興しました。それが現在の森産業株式会社です。
さらに喜作は自ら種駒や工具を背負い、戦後間もない日本の農村をくまなく歩き回って椎茸の人工栽培の普及に努めました。
その後も舞茸の人工栽培法などを次々と開発し、わが国のきのこ生産量を世界一の座に押し上げる原動力となったのでした。
きのこ産業のさらなる発展のため世界各地へ東奔西走を続けた森喜作でしたが、活動のさなか香港にて病に倒れ、69歳でその生涯を遂げました。
彼の葬式は縁ある桐生・大分・香港の三か所で営まれ、生前関わりのあった大勢の人が参列に訪れました。
森喜作の「われ農夫の祈りに開眼す」の精神は今も森産業グループ一同へ脈々と受け継がれ、きのこを通じた一層の社会貢献を目指して取り組みを続けております。
略歴・主な受賞歴BIOGRAPHY
明治41年(1908年) | 群馬県桐生市に生まれる | |
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昭和10年(1935年) | 京都帝国大学 農学部 農林経済学科 卒業 | |
昭和11年(1936年) | 森食用菌蕈研究所を設立 | |
昭和17年(1942年) | 「菌種駒の製造法」の特許を出願、翌年取得 | |
昭和18年(1943年) | 株式会社森農場(現森産業株式会社)を設立 | |
昭和23年(1949年) | 有栖川宮賞 受賞(椎茸増産の功績) | |
昭和28年(1953年) | 藍綬褒章 受賞(椎茸産業の発展に対する功績) | |
昭和35年(1960年) | 紫綬褒章 受賞(西洋松茸栽培法の発明) | |
昭和37年(1962年) | 紺綬褒章 受賞(発明協会綜合発明研究所建設資金寄附 など3件) | |
昭和42年(1967年) | 内閣総理大臣表彰(輸出振興の功績) | |
昭和49年(1974年) | 第9回国際食用きのこ会議議長に就任 | |
昭和52年(1977年) | 香港にて客死 従四位勲二等瑞宝章 授与(追贈) 桐生市名誉市民に 推挙 |